「哲学の貧困」カール・マルクス著について

「哲学の貧困」が書かれた経緯
この本は、プルードンがマルクスに贈った「経済的諸矛盾の体系、別名貧困の哲学」に対する批判として書かれたものです。なぜ、マルクスはプルードンが書いた「貧困の哲学」を受け入れる事ができなかったのでしょうか。それは、プルードンが生産物の対等な交換を主張しプロレタリアートの味方をしているような素振りをしながら、結局は団体交渉権を認めないなどブルジョワジー側から抜け出せていないからです。

競争に対するプルードンとマルクスの相違
 プルードンは生産物が人間の生存に役立つ性質を効用価値と呼び、生産物が交換される性質を交換価値と名づけました。そして、生産物は要費した労働時間に比例して交換されるべきと主張しました。しかし、プルードンは分業と競争を認めています。このことがマルクスには受け入れられませんでした。競争を認めるとある人が生産物を2時間で作り、別の人が同じ生産物を1時間で作ったとすると、2時間で作った人は1時間で作った人と同じ値段で売らないと売れません。生産物が要費した時間に比例して交換されない状態です。プルードンは競争を廃棄する必要はない、競争の均衡を見出す必要があると考えています。それに対して、マルクスはもっとも貧困な生産物が最大数の人々の使用に役立つと考えています。つまり競争を認めると短時間で効率よく作れる貧困な生産物が、短時間で効率よく作れない効用大な生産物より売れてしまうということです。

分業に対するプルードンとマルクスの相違
 プルードンは分業については、分業の有益な効果を保持しながら、その弊害を除く再編成を見出すべきと考えています。それに対して、マルクスはアンドレ・ユーア著「工業の哲学、別名工業経済」を例に出しています。機械改良の目的は、人間の労働を全然不要にするか女子と子供の労働に代えることにより労働の価格を低減するにあるそうです。分業を認めると機械化は自然な流れですが、機械化すると生産物に要費した労働時間に比例した交換ができるどころか、交換を行うための労働さえできなくなってしまうということです。また、マルクスはアダム・スミスの主張を例に出しています。人間の自然的才能の差異は分業の原因というより分業の結果であると。つまり分業がなされると生産効率が上がる反面、人々は特定の作業に固定され才能を高めることができなくなるということです。そして才能を高めることができない状態のまま機械化が進み、技能の才能が低い状態のまま職を失ってしまうのです。

貨幣に対するプルードンとマルクスの相違
また、プルードンは「金と銀とは、その価値を構成に到達している最初の商品である」と言っています。つまり金と銀の量によって生産物との交換がされるということです。つまり、プルードンは金と銀を貨幣として認めているということです。プルードンにとって労働時間が生産物の交換に適用される基準であるから、金と銀も商品とみなし、金と銀を生産する時間と他の生産物を生産する時間に対応する量で交換するべきと主張するべきだったのです。
 マルクスはリカードの「経済学原理」(?)を例に出しています。貨幣は労働時間によっては決定されないと。つまり、金と銀に貨幣としての価値を認めてしまうとその他の生産物とそれを生産するのにかかった時間に対応する量の交換ができなくなってしまうということです。

結論
プルードンの生産物は要費した時間に比例して交換するべきという主張は注目するべきと思います。ただ、分業、競争、貨幣を認めたために一貫性のないものになっています。プルードンはその矛盾を例えば、分業は平等が実現される(措定)、分業によって貧困になる(反措定)、分業の有益さを保持しながら弊害を除く再編成(総合)(を見出すべき)というような弁証法で解決しようとしています。
 それに対してマルクスの競争に対する指摘も注目すべきです。最も貧困な生産物が最大多数のの人々の使用に役立つと。競争が認められれば貧困な生産物が効用大な生産物を駆逐してしまうのです。最大数の人々が貧困でなかったなら、効用大な生産物を選ぶことも可能でしょう。しかし、貧困であると自然とまたは否応無く貧困な生産物を選んでしまうのです。だから競争すればするほど、生活に貧困な生産物が溢れ、健康とお金を失いますます貧困になってしまうのです。社会が豊かになるためには人々は効用大な生産物を選ぶ努力と貧困から抜け出す努力が求められます。一人一人が効用大な生産物を選ぼうとする姿勢が、社会のためだけでなく、自分自身のためにもなるということがわかりました。

参考文献 哲学の貧困 カール・マルクス著 山村 喬訳 岩波文庫