「伝習録」とは
「伝習録」は中国の明の時代の王陽明の言葉を弟子の徐愛(じょあい)、陸澄(りくちょう)、薛侃(せつかん)がまとめた書物です。伝習の由来は「論語」(学而(がくじ))の「伝不習乎」だそうです。これは「習はざるを伝ふるか」(古注)「伝へて習はざるか」(朱注)「伝わりて習わざるか」(道春点)などと読むそうです。王陽明が起こした陽明学は、吉田松陰、西郷隆盛、大塩平八郎など多くの日本人に影響を与えたそうです。
知行合一
陽明学の特徴は行動を重視していることです。
知は行の始め、行は知の成るなり。聖学はただ一箇の功夫。知行は分つて両事と作すべからず。
(知ることは行うことの始まり、行動は知ることの完成。聖人の学問はただ一つの工夫あるのみ。知ることと行うことは分けて別のこととしてはいけない。)
いわゆる知行合一です。普通私たちは知識を多く持っていることはいいことだとみなされています。知識が多いと人として深みが出て豊かな人生を送れると思われています。しかし、王陽明は知識がいくらたくさんあっても行動に結びつかないと意味がないと考えているようです。知識はそれ自体で意味があるものではなく、実際の生活に役に立ってこそ意味があるということのようです。私たち人間は色々な新しい知識に興味を持ちますが、知識を得ることで終わってそこから何も進展しない知識は知とはいえないということでしょうか。行動を重視するなら知識で終わる知識はむしろ行動の邪魔となるので、そういう知識は得ないようにする方がいいのかもしれません。表面的な知識、自分にはどうにもならない知識は右往左往するだけでむしろ害があるかもしれません。
知識と金の共通点
金の成色は争ふ所多からざれば、則ち煆錬(かれん)の工省(はぶ)け功成り易し。
(金の純度は不純物が多くなかったら、精錬の手間を省け成功しやすい。)
と書かれています。自分の欲望を含んだ知識は知識の質を低めることになるので、むしろ得ることは望ましくないようです。知識を増やすことではなく、知識の質を高めることが重要のようです。
人に応じて教える
また、王陽明は自分の思想を教義のように絶対的なものとしてとらえられることを否定していたようです。
我の這裏(ここ)に人に接するに、原(もと)この二種あり。(略)人に随つて指点すれば、自(おのずか)ら病痛没(な)し。
(私が接する人には、元々二種類ある。人に応じて教えたら自然と間違いはなくなる。)
と書かれています。絶対的な教えというものはなく善を行う人、悪を行う人など人に応じて教えることを変えるのが望ましいようです。つまりいつの世にも正しい考えというものはなく時代により、人により正しい考えは変わるということかもしれません。ただし、王陽明は心の本体が元々悪である人間はいないと考えていたようです。
善無く悪無きは是(こ)れ心の体、善有り悪有るは是れ意の動、善を知り悪を知るは是れ良知、善を為し悪を去るは是れ格物
(善がなく、悪もないのが心の本体、善があって悪があるのは心の中の気持ちの動き、何が善であるかを知り何が悪であるのかを知るのは良知、善を行い、悪を行わないのは格物)
と書かれています。つまり、善いことや悪いことをを行う心というものは元々なく、外界からの作用によって気持ちが動き、善いことや悪いことをを行うと王陽明は考えているようです。
善とその行い方
それでは善とは何なのでしょうか。
みなその昆弟赤子の親とし、安全してこれを教養し、以てその万物一体の念を遂げんと欲せざる莫し
(みんな自分の兄弟赤ん坊のように、安全にして教えて、すべての物が一体であるという気持ちになりたいと思わないことはない)
と書かれています。つまり、物欲をなくしすべての生き物に自分の兄弟赤ん坊に持つ気持ちで接することが善であると王陽明は考えていたようです。また、
父子親あり、君臣義あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信有る
(父子の間に親しみがあり、主君と家臣の間に礼儀があり、夫婦の間に区別があり、年上と年下の間には順序があり、友達の間に信頼がある)
と書かれています。これは、「孟子」(滕文公章句上)に由来する言葉のようです。この五つのことを行うのが道心(私欲のない心)だと書かれています。つまり、他者とのふさわしい関係を保ちつつ、肉親に対する気持ちを徐々に外側の人々、生き物に対しても持ち行動することが善であると王陽明は考えていたようです。善を行うには抜本塞源(ばっぽんそくげん)(原因を木の根元から抜き、水源から塞(ふさ)ぐ)が大切だと王陽明はと考えていたようです。抜本塞源は春秋左伝 昭公九年(参考 抜本塞源 – ウィクショナリー日本語版 )に由来するそうです。そして
樹を種うる者は必ずその根を培ひ、徳を種うる者は必ずその心を養ふ。樹の長ずるを欲せば、必ず始生の時において、その繁枝を柵(けず)れ。
(樹木を育てる人は根を養い育て、徳を育てる人は心を養い育てる。樹木を生長させたいのなら、必ず生長の始めに余計な枝を取り除かなければならない。)
と書かれています。つまり、日々の生活で私欲を掻き立てるものを根元から取り除くことが、人として立派な行いや品性を育てるのに必要だと王陽明は考えていたようです。
まとめ
以上のように王陽明は、人々の心本体に善悪はなく外界からの働きによって善悪を行う。善を行うためには根本から善を妨げるものを取り除くことが大切。他者との適切な関係を保ちつつ、肉親に持つ気持ちを徐々に外の人々にも持っていき行動することが大切。知識は行動に関係している必要がある。人には元々善を行おうとする知識ではない働きがある。ただし、この働きは微弱なのでこれに集中して保持しなければならないと考えていたということがわかりました。
参考文献 「伝習録」安岡正篤 中国古典新書 明徳出版社