「地下室の手記」と評価経済

無性格な人間と性格をもった人間
主人公の言う「19世紀の賢い人間は、どちらかといえば無性格な存在であるべきで、道義的にもその義務を負っているし、一方、性格をもった人間、つまり活動家は、どちらかといえば愚鈍な存在であるべきなのだ。」はどういうことを意味しているのでしょうか。賢い人間の中にも無性格な人もいれば性格の際立った人もいるような気がします。世間ではむしろ性格が特徴的な人を賢いとみなしていて、無性格な人を賢いと言うことはあまり聞かないような気がします。それなのに賢い人間は無性格な存在であるべきなのでしょうか。
 主人公は「人間、日常生活のためには、世間一般のあふれた意識だけでも、十分すぎるくらいなのだ。」「たとえば、いわゆる直情型の人間とか活動家とかいった手合いが持ち合わせている程度の意識があれば、それでけっこうやっていけるのだ。」と書いています。つまり、活動家はあまり意識を働かしていない人間であると主人公は考えているようです。ここで活動家とは政治的思想を持った人間を意味しているのでしょうか。意識を働かしている人間は賢く、そういう人間は活動家であるべきではないということでしょうか。無性格とは多数の人と同じような性格を意味しているのでしょうか、それとも目立たない性格を意味しているのでしょうか。性格をもった人間=活動家なら、無性格な人間=ノンポリでしょうか。賢い人間が活動家であると道義的ではないのでしょうか。活動家であることは法律的に問題なくても人道的に問題があるということでしょうか。人は自分に益になることを行い、害があることを避けるのが正常だとすると、活動家はそのような機能が正常に働いていない状態ということでしょうか。人が自分に益になることを行うことは個人的事柄であり、それが活動家の行為のような一般的な事柄と一致することは少なく、賢くあるためには活動家であるべきではないということでしょうか。活動家であることは病気の状態であり、それは感染する可能性があるから道義的に望ましくないと考えているようです。

無性格な人間と評価経済
 今の日本でも賢い人間は無性格な存在であるべきといえるでしょうか。最近、信用経済、評価経済という言葉をよく耳にします(岡田斗司夫 評価経済で検索)。これからはAIの発達により、人々のSNSでの発言、購入履歴などによりその人の社会的評価が決まる社会になる可能性があるそうです。その場合、無性格でない人間は自分が何も法律的にふさわしくないことをしていなくても、自分と同類と判定された人々が法律に違反する行為を行ったら自分も社会的評価が下がるようです。つまり例外は認められない社会です。そうなるとこれからの日本では無性格な存在であることが賢いようです。評価経済ではリスクのある人間を事前に回避できる利点がある反面、社会の流動性が失われる危険もあります。ある階層の人間はその階層特有の一般的特徴のために、特定のサービス、機会を得られなくなる可能性があります。それによって、他の階層に移る機会が失われるかもしれません。
 もうすでに今の日本では無性格な人間を評価する兆候がみられるかもしれません。人々が本を買ってその意見を参考にする機会が減り、SNSで発信する有名人の意見に賛同することが多くなっている気がします。SNSは誰でも容易に短時間で読めることを求められるので芸能人やタレントのSNSを見る人が多いと思います。芸能人やタレントは広告塔の一面もあるので多くの人の支持を得なければいけないので活動家である場合が少ないと思います。だから人々は無性格な人間を自然と評価することになっていると思われます。SNSが浸透した無性格な人間を評価する社会では芸能人やタレントのような人々を中心とした多数の人々が賛同するマジョリティよりの意見を言う人々の発信に価値を見出します。意見に賛同するポイントは論理的整合性ではなく自分の感性との一致であると思われます。合理的意見より感情に訴えた意見の方が賛同されやすいと思われます。活動家全般を受け入れにくい社会であるがゆえに感情的思考になり、逆に激情型の活動家を受け入れやすい土壌がある社会であるかもしれません。

善の意識と人為的都市
 また主人公は「都市にも人為的なものと、人為的でないものとがある」「(人為的な都市に住むには)意識量の二分の一、いや、四分の一もあれば十分なのである」「たんに意識の過剰ばかりでなく、およそいっさいの意識は病気なのである」と書いています。つまり、人為的な都市とは人の手が加えられていて少ない意識量で生活できる都市のようです。
 また主人公は「ぼくが善を意識、その《美にして崇高なるもの》とやらを意識することが強ければ強いほど、ぼくはますます深く自分の泥沼にはまりこみ」と書いています。主人公は意識すればするほど善を意識するが、人為的な都市では善を意識する余地があまり与えられないので、持て余された善への意識が自己否定に向かうということでしょうか。人為的な都市では個人が善悪を判断し選択する前に、すでに片方が選ばれていて個人はそれを受け取るか受け取らないかの判断しかできないと思われます。だから余分な意識を持つと意識と現実との隔たりにより自己嫌悪に陥ると思われます。そして自己の否定により意識と現実との整合性を取っていると思われます。
 今の日本も分業化、自動化などにより人為的な都市といえるような気がします。だから、意識はあまり求められず選ばれたものを受け取るか受け取らないかの場合が多いと思います。評価経済では個人が善悪を判断することは求められていないと思われます。一般的に正しいとされる判断に疑うことなく従うことが求められると思います。評価経済では意識は事柄に向かうのではなく世間の常識に向かうことが求められるようです。

参考文献 「地下室の手記」 ドストエフスキー 江川卓訳