「喜ばしき知恵」について
ニーチェの「喜ばしき知恵」は「ツァラトゥストラはこう言った」と「善悪の彼岸」に近い時期に書かれた書物です。内容的に似た箇所もあり、それぞれの書物を理解するのにお互いに役に立つかもしれません。またニーチェのもっとも有名な言葉「神は死んだ」が書かれている書物でもあります。
「喜ばしき知恵」とは何か
「喜ばしき知恵」(gaya scienza)とは知性、思考のことだそうです。知恵とは本来喜ばしいものであるということでしょうか。また「生は認識の手段である」この原則を胸に抱いてこそ(略)喜ばしく生き、喜ばしく笑うことができる、まず闘いと勝利に熟練していないなら、いったい誰がよく笑い、よく生きることなどできるというのか、と書かれています。生は勝利のために闘う場所であり、認識する対象は生であるようです。これは今生きている生を第一に考える実存主義と思われます。現在の生について考え、認識することが一番重要で、それが知恵なのなら喜ばしいものであるはずということなのでしょう。またニーチェは書物や人間や音楽の価値は「それは歩くことができるか?(略)踊ることができるか?」にあると書いています。つまり楽しさ、生に関係することに価値があると考えているようです。ただし、必ずしも真理である必要はないようです。真理と非真理が両方ともいつでも有益と書いています。
非真理が有益である理由
なぜ非真理が有益なのでしょうか。
第一に迷信は啓蒙の徴候であると言っています。迷信に身を委ねる者は、自分の好みの形式や公式を選択し、その選択権が自分にあると考える、と書かれています。人を主体的にさせるところが有益なようです。ギリシア、ローマ、日本などの神話を信仰する人々が行動的だったりするので、そうなのかもしれません。
第二に獲物や天敵で「等しさ」を見出すのに時間がかかる者は、「等しさ」をただちに推定するような者より生存の確率は低くなると言っています。生存のためには時間のかかる真理の認識よりも、すばやい非真理の認識の方が有益な場合もあるということなのでしょう。
第一の迷信には偶像崇拝も関係ありそうです。個々人が自分独自の理想を掲げ、そこから自らの掟や喜びや権利を引き出すことを偶像崇拝そのものとみなされてきたと言っています。もし神にその神の理想があるとすると、個々人が独自の理想を掲げることは、神に反する行為か、神は存在しないか、それぞれの個人の理想を認める神がそれぞれいるかのどれかと思われます。個々人の理想を認めるためには、神は複数いる必要があり、多神教において可能だとニーチェは考えているようです。あらゆる種類の神々や英雄や超人の発明、ケンタウロス、サテュロス、悪鬼や悪魔などの発明は、個々人の利己心や独断を正当化する貴重な予行演習であったと書かれています。いろいろな神や人が書かれている神話や物語はいろいろな理想を提供し人々の主体性に役に立っているようです。
意識することの短所
またニーチェは認識の価値は認めているものの、意識の価値はあまり認めていないようです。意識は元来は人間の個人的存在に属しているものではなく、むしろ人間における共同体的・集群的本能に属するものであると書かれています。危険に晒された動物が自らの苦難を言い表し、疎通し合うために「意識」が必要になったそうです。そして「自己自身を知る」ことに努めても、自分の中の「平均的なもの」ばかりを意識することになると書かれています。自己を知ろうとしても他人との比較でしか知ることができないので、意識はあまりよくないということなのでしょうか。
恥じることの短所
またニーチェは恥じると言う行為を否定しています。諸君が諸君自身を恥じているのなら、まだわれわれの仲間ではないと書いています。そして、自分自身の愚かさを愉しまなければならないと書いています。恥じるという行為は、道徳に囚われている証拠であり自由な行動をするための足かせになっていると考えているように思われます。
思い込みの動機
行動に関しては、何を行動の真の原動力だと想定してきたのかが重要だと書かれています。真の動機はわからないから動機だと思い込んでいるものが重要ということなのでしょう。真実は何か追究しようとしないで、本人の思い込みを重視しようとする姿勢は、現実という仮象が実在より重要ということなのでしょう。実際、仮象こそが、作用をもたらすもの、生きているそのものと書かれています。ただし、ニーチェは仮象は実物の反対ではないと書いています。仮象は実物ではないが、仮象が除かれた実物は存在しないと考えているようです。
個性の重要性
また、個性の欠乏は禍(わざわい)の元と書いています。この場合の個性はエゴイズム(利己主義)に近いように思われます。愛こそがエゴイズムの最も素直な表現と書かれています。また、偉大な問題はすべて偉大な愛を必要とすると書かれています。大きな問題を行うには強い個性が必要であり、強い個性がないと大きな問題を行うことができず、禍に巻き込まれる可能性があるということなのでしょう。
情熱の重要性
また、ニーチェは情熱が重要だと言っています。高貴さが生まれるのは、高貴な者を見舞う情熱が特異なものであり、しかも彼自身、その特異さに気づいていないことによってであると書かれています。つまり、情熱が理に適っている必要はなく、むしろ理解できない方が高貴なようです。また、情熱は、禁欲主義(ストイシズム)や追従に優るとも書いています。情熱とは何かをしようとする意欲であり、人を行動に向かわせるものです。自由とは行動のことであり、自由を大切に思うニーチェは行動の原動力の情熱を重視したのでしょう。
永劫回帰について
また、ニーチェは行動に関して永劫回帰についても書いています。
悪鬼がこう言ったとしたらどうだろう。「お前が現に生きて、これまで生きてきたこの人生を、お前はもう一度、さらに無限回にわたり生きなければならないだろう。そこには新しいことは何一つなく、一切の苦痛や快楽、すべての大事、小事のさまざまが、そのままの配列と順序で回帰してくるのだ(略)」
こう語った悪鬼に「お前こそ神だ。これほど神々しいことを私は聴いたことがない」と応じられるくらい人生を愛おしく思わなければならないと言っています。この言葉からニーチェの現世に対する強い肯定と一つ一つの行動に対する重みが感じられます。同じ人生が繰り返されるのなら楽しい人生が繰り返される方がいいです。楽しい人生を送るためには、喜ばしき知恵が必要なようです。楽しい人生を送ることが人生に対する愛なのでしょう。喜ばしく生きるには、最初に書いたようにする必要があるようです。すなわち「生は認識の手段である」という原則を胸に抱くことだそうです。つまり、人はこの世という仮象を認識することで喜ばしく生きることができるようです。
最後に
この「喜ばしき知恵」という書物は後の方の書物であり他のニーチェの書物に関係することも書かれているので、一冊だけニーチェの書物を読んでニーチェの考えに触れるとしたら最適の書物に思われます。またニーチェは、読者の側に多少とも似た体験がないことには、この書物の体験そのものに近づくことはできないと書いているので、ここに書いた内容は全部間違っている可能性もあります。
参考文献
「喜ばしき知恵」 フリードリヒ・ニーチェ 村井則夫 訳 河出文庫