カント「判断力批判」(上)第二章 崇高の分析論

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崇高とは
カントによると、崇高は絶対的に大であるものと定義されるそうです。
認識は必ず快の感情が結びついてるそうです。快の感情には以下の物があるそうです。

      ┌快適・・・「分量」
快の感情 ─┌美・・・「性質」
      └崇高・・・「関係」・・・ある表象を崇高と感じるに至った精神状態が崇高。
      │            崇高な対象と精神という関係。
      └(絶対的)善・・・「様態」・・・ア・プリオリな概念に基づく必然性という様態

崇高と判断力の種類
また崇高は数学的崇高と力学的崇高に区分されるそうです。

崇高 ─┌数学的崇高・・・感動を認識能力に関係させた時の数学的調和
    └力学的崇高・・・感動を欲求能力に関係させた時の力学的調和

判断力 ─┌美学的判断力・・・主観的(形式的)合目的性を快・不快によって判定する能力
     └目的論的判断力・・・客観的(実在的)合目的性を悟性、理性によって判定する能力

なぜ崇高は快の感情と言えるのか
 判断するには対象を認識しなければなりません。主観的に認識する時は快の感情が伴います。よって快の一つである崇高について考えることが判断力を理解する上で重要なようです。崇高と呼ぶものには、険岩、雷雲、火山、暴風、大洋、瀑布(滝)、荒天、嵐、地震、戦い、神などがあるそうです。一見、崇高の対象は快と呼ぶにはふさわしくないように思われます。
 カントによると、崇高は感官の関心に抵抗することによって直接に我々に快いそうです。また、自然が美学的判断において威力とみなされながら、その威力が我々に強制力をもたない場合には、力学的崇高と言われるそうです。また、我々が常に気遣っているもの(財産、健康、生命等)をすべて小であるとし、自然の強大な威力をすら、我々と我々の人格性とに対する強制力と見なさないような力を我々のうちに喚起するからこそ崇高と判定されるそうです。自然は自分の欲望を小さいものみなし、自然に立ち向かう気持ちを起こさせるから崇高であるようです。
 また、美は一切の関心にかかわりなく何か或るものを愛するようにさせ、崇高は関心に反してすら或るものを尊重させるそうです。カントは道徳的人間なので、道徳を実践する上で自己の関心を追及を抑制する効果のあるから、美と崇高を重視したようです。
 また崇高に関する適意は、美(趣味判断)に関する適意と全く同じで以下のようになるそうです。

崇高の判断様式
崇高に関する適意 = 美(趣味判断)に関する適意
┌分量 普遍妥当的
│性質 関心にかかわりなく
│関係 主観的合目的性を有す
└様態 必然的

美学的判断力 ─┌美(趣味判断)・・・不定な悟性概念の表示
        └崇高・・・不定な理性概念の表示

美学的判断はすべての主観に普遍的に妥当するのか?

 崇高は感性的形式に含まれるのではなくて理性理念だけに関するものだそうです。崇高の対象に対する恐怖を捨てて強制力と見なさない心意識が崇高だそうです。このような心意識が我々のうちに存在しうるそうです。よって崇高はすべての主観に普遍的に妥当すると言えるそうです。崇高を一般に使う崇高という意味ではなく、崇高の対象を強制力と見なさない心意識を崇高と定義することで、すべての主観にとって、崇高の対象を強制力と見なさない場合が可能であるということで、崇高はすべての主観に普遍的に妥当すると言えるようです。

 次に趣味はすべての主観に普遍的に妥当するのでしょうか。カントは趣味を与えられた表象に関する我々の感情にすべての人が概念を介することなく普遍的に与り得るところのものを判定する能力と定義しました。つまり、ある美の対象を美と判断するには、自分がそれを美しいと思うだけでは成立せず、それをすべての主観が美と判断すると考えることも必要ということだそうです。だから判断の条件にすべての主観に普遍的に妥当することが含まれるので、趣味はすべての主観に普遍的に妥当すると言えるということだそうです。

共通感 [共通感覚] ─┌趣味 = 美学的共通感
          └普通の人間悟性[常識] = 論理的共通感

共通感覚とは他のすべての人の表象の仕方を考えの中で(ア・プリオリ(先験的)に)考慮する能力だそうです。人がすべての人が自分と同じ感情を持つことを想定できるということは、すべての人に共通感があることを前提としているようです。またカントは美は社会においてのみ関心を生ぜしめると書いています。人がその社会に適応しようとして、その社会が成立するために必要な考え行動を行なおうとすると、それが共通感として現れるのでしょうか。またカントは我々に直接的関心を喚(よ)びおこすのは自然美だけと書いています。またカントは自然美に対して直接の関心をもつのは善良な魂の標徴であると言っています。よって趣味判断で判断の対象は自然だけで、判断する人には善良な魂があることを前提としているようです。
 以上より、強制力と見なさない威力、社会、共通感、善良な魂などを前提にすることにより、美学的判断はすべての主観に普遍的に妥当すると言えるようです。趣味(=美学的共通感)があることはその社会に適応できる素質があり、崇高を感じられることはその社会から外れない道徳的素質があるようです。人の美学的判断力はその社会と関係があり社会から影響を受けていて、その社会に適応するのに役立つ能力であることがわかりました。

参考文献 「判断力批判」(上) カント著 篠田英雄訳 岩波文庫